1240年、アルブレヒト4世の死によって、ルドルフは四代目のハプスブルク伯爵位の相続人となった。
1240年初頭、ルドルフは恐らく封土としての領地を授かる為にコンラート4世と繋がりを持つようになった。
1241年、ルドルフはファエンツァのフリードリヒ宮廷で過ごした。
1243年にはトイフェン家のヒューゴ3世(*どうやらティーフェンシュタインの領主?)との、シュタイン・アム・ラインとザンクトブラジエンの修道院に対する支配権を巡った争いが始まるが、ヒューゴはルドルフの指図によって殺された。
ルドルフはこの行動によって、ホーエンシュタウフェン家が彼に好意を抱いてくれる事を期待していたのかも知れない。
この事(ヒューゴと争う事)は、インノケンティウス4世によるフリードリヒ2世の破門後、南ドイツの有力な支持者としてのルドルフには必要な事だった。
これによってバーゼル司教の弟・アルブレヒトとルドルフ3世を繋ぎ止め、教皇側に繋ぎをつけるのだから、なおさらだった。
ルドルフはホーエンシュタウフェン家への加担を、破門によって証明された。
1252年、暫くの間ルドルフはコンラート4世に同行して、イタリアへ行ったようだ。
およそ2年後、ルドルフは、コンラートにザンクトブラジエンの代官とシュヴァルツヴァルト地域の無官貴族を(お供に?)つけてもらった為に、バーゼル司教(not 弟)とストラスブール司教とブライザッハとライフェルデンの街を巡る軍事衝突に陥った。
同時にルドルフは1273年以後アンナと呼ばれる、ゲルトルート・フォン・ホーエンベルグと結婚した。コンラート4世の死と、ホーエンシュタウフェン家の権威が衰えた後、ルドルフは恐らく破門を解かれたのだろう。
1261年、ストラスブール市民と争う、ストラスブール司教ヴァルター・フォン・ゲーロルトゼック(南ド バーデン=ヴュルテンベルク州)を支援した。
争い合う両者の間で休戦協定が完了すると、ルドルフは市民側へと立場を変えた。
ここまで!
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