更新なさすぎるんで、ここは本格的に倉庫化しようと思う今日この頃。
それはさておき、ハプスブルク家のレオポルト一世の記事和訳です。
ADBの和訳です。
余談ですが、一部地域(地域て)で彼の称号が「荘厳公」と私の訳が出回ってしまった恐ろしい事実があります。
辞書に載っていない単語なもので、私が類推しただけで、非常に不正確かつ、恐らく単語に忠実でない称号だと思います。
レオが有名になった暁にはこの赤っ恥訳を誰かが訂正してくれる事を切に祈っていますが、今のところそんな見込みがほぼないのが悲しいところです。
レオポルト一世はオーストリアとシュタイアーマルクの公爵である。アルブレヒト
一世と、ケルンテンのマインハルトの娘――エリザベスとの三男として、おおよそ
1290年に生まれた。
1308年3月の父の暗殺後、彼はいわゆる「Vorlande」――すなわち、ハプスブルク
家ゆかりの地とそれ以外の、シュヴァーベンとアルザスにおけるオーストリアの所領
を受け継いだ。
まず何よりも先に、彼は年長の兄であるフリードリヒ美王と連携し、父を殺した相
手への報復戦争を指揮し、幾つかの征服した城に駐留軍を支援の為に差し向けた。
ハプスブルク家が新しい皇帝――ハインリヒ七世と結んだ協定に従い、レオポルト
は1310年の11月に軍勢を連れてアルプスを越えた。
そして1311年の2月12日、ミラノの反乱を鎮圧した功で傑出していた。
彼は続く夏、ロンバルディアのブレアシアを包囲に参加したが、夏の暑さの為に兵
の多くが病にかかり、一行は帰国の途に就かねばならなかった。
ハインリヒ七世の早すぎる死の後、オーストリアの凡ての貴族たちは行動を起こし
た。つまりは、長男・フリードリヒ美王に選帝侯たちの票を得させる為に。
何故なら、ハインリヒの行動は証明していたのだ。
彼らは既に力を持ちすぎていて、他家出身の皇帝に不信や嫉妬を抱かせざるを得な
いという事を。
レオポルトは取り分け、交渉を主導した。
しかし、ハプスブルク家は資金を蓄えも、協定を結びもしないにも関わらず、凡て
の選帝侯たちを味方にするなど、まず成功する訳がなかったのだ。
フリードリヒは1314年10月19日に、一部の選帝侯によって皇帝に選出されたに過ぎ
ない。
フリードリヒ美王とバイエルンのルートヴィヒの間で勃発した、帝国を巡る争いに
おいて、レオポルトはハプスブルクの剣であり、(それを振るう)腕であった。
ルートヴィヒはレオポルトを恐れていた為、彼と対峙した時はいつでも、あらゆる
重大な戦いを避けた。
取り敢えずここまで!

PR