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Der Kasten

世界史料理とか人物についてとか色々格納倉庫。

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ご無沙汰です。

寒中お見舞い申し上げます。
ふざけてんのかって更新率で申し訳ないです。いつの間にかクリスマスも過ぎ、年も明けてしまいました。
でも手ブロでは12月26日のフリードリヒ2世誕生日祝い&1月8日インノケンティウス3世教皇就任祝いをきちんとしたので、まあ良いかと自分を甘やかしておきます(思いっきり日にち的には過ぎたけれども)

ところで相変わらず私はインノケンティウス3世が載ってそうな本ばかりを漁っているんですが、ついにアッシジのフランチェスコの本も買いました。
ベラルド・ロッシの『聖フランシスコとその時代』という本です。
字も大きく、あっさりめなので読みやすく、個人的にホノリウス3世の記述が多くて大変ありがたい本です。綺麗なグレゴリウス9世も拝めます。

さて、前回に引き続きコンクラーヴェの話をしようと思います。
現在では選挙=投票というイメージの強いコンクラーヴェですが、かつては「枢機卿たちが一斉に新教皇に推す人物の名前を発声して、満場一致だった場合決定」という方法もありました。
インノケンティウス3世の説明で「満場一致で」と云う文が添えられていたりするので、恐らくこの方法で決まったものと思われます。
それでは、この声が一致しなかったら?
その場合は枢機卿団の中から代表者が選び出され選出を主導してもらう事になるそうです。
海外サイトを調べていて知ったのですが、ホノリウス3世はこの方法で決められたようなのです。
選んだ代表者は二人。
後のグレゴリウス9世となるウゴリーノ・ディ・コンティとグイド・パパレスキ(インノケンティウス2世の親戚)です。この二人が一致してツェンツィオ・サヴェッリを選んだ為に、ホノリウス3世は生まれたのです。
彼は、ジャック・ド・ヴィトリの書簡によると貧しい人々に財産のほとんどを寄付してしまうような人だったようで、このような人物をインケン3の後任に据えるとは、対比を狙っているとしか思えませんね。
でも、単なる人の良いおじいちゃんじゃないんだろうなって思います。

では今日はこの辺で。
余談ですが、私はいつもヴィトリの書簡でインケン3死亡時の記述を見るにつけ、遺体を「見つけた」という表現が用いられていて泣きそうです。はい。

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教皇選挙あれこれ


全然更新してなくて申し訳ない。
ブログ記事にするような話題がなかったというか、私は読書感想文が昔から苦手です。
なので、今回は適当に喋ります。

中世のローマ教皇選挙の候補者リストが載っているサイトを発見したので、ちょっと調べてみました。
コンティ家の人がうじゃうじゃ出てくるんですが、皆「おい」「いとこ」などなどややこしい事この上ないです。

で、個人的に興味深かったのは各教皇が一代前の教皇選挙に候補として挙がっているという事です。
1191年3月25(?)~30日のケレスティヌス3世が選出された選挙において、後のインノケンティウス3世であるロタリオも参加(?)しているのですね。
他にも
1198年1月8日のインケン3選出の選挙には後のホノリウス3世であるチェンツィオが、
1216年7月16日-18日のホノリ3選出の選挙には後のウゴリーノが、
それぞれ参加というか候補者の名前として挙がっているのです。

これって普通の事だったのでしょうか?
前々から経験や能力があってって人ならまあ分かるんですけど、インケン3は1191年って30歳なんですよね。彼は1187年の終わりに副助祭になって、この時には1190年に助祭枢機卿にはなってるんですけど、位階は枢機卿団の中でも一番下なのです。
インケン3選出の選挙の時(満場一致で選出なので一日で決まった模様)、ホノリはカメルレンゴ辞めて、フリ2の家庭教師だったのかな。
ホノリ3選出時はウゴリーノさんはオスティア司教とかだったかなー。
聖職者の位階に詳しくないので如何せん分かりませんね^^;
もっともっと調べてみようと思います。

ちなみに、私が勘違いしていた事なんですけど、司教と枢機卿って兼任(?)出来るのですね。
というか枢機卿の多くは助祭枢機卿であろうが司祭枢機卿であろうが、司教である事が多いようです(これは現代の事で中世には当てはまらないかも知れないですが)
ローマ教皇事典だとインケン3は教皇選出の後に司教に叙階されているので、私はてっきり枢機卿の方が偉いとか思ってたんですけど、単なる縦のラインじゃないのかなぁって思いました。

話題がとっちらかってごめんぬ!
今日はここまで。

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インノケンティウス3世と医学

予告通り、『ローマ教皇検死録』に載っていた医学関連の話。

この本は基本的に現代目線で書いてあるので、当時の社会背景に対しての理解は薄い印象。
インノケンティウスが書いた、(現代からすると)偏見入った「人間は汚いものから生まれる」といった趣旨の文に対しても、著者は「この人にお母さんっていたの?って思える。インケンってマジ邪悪な魂の申し子じゃないかって疑うわー(超意訳)」とか書いていて盛大に吹き出したりしました(笑
(インケンには「人間って悲惨」「俗世ってちょっとね……」みたいな思考が根底にあったようなので、人が生まれる、という事に対してマイナスイメージを持っている可能性は多大にあります。)
余談ですが、この本では聖職者の独身制をインケンが推し進めた理由を、「その人が生まれる事に対するマイナスイメージが行きついた先」で片付けてしまっているのですが、まあ実際は聖職者が堕落して、教会の威信が傾きかけた状況があって、イメージアップしなきゃといった理由もあると思うので、それだけを理由にしてしまうのは何か違うなと思ったり。
まあ、本の趣旨から離れてしまうので、ね……。

あと一つ気になったのはインケンが、法医解剖を「教皇として」初めて許可した人だと言う事。法医解剖は元々行われてきたそうですが、許可を出した教皇はケン様が初めて!
実際に彼が死因を究明しなさいねって指示を出していた逸話も載っていたので、フリードリヒ2世の解剖の話と合わせて非常に興味深かったです。

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インノケンティウス3世の死について

今日はケン様ことインノケンティウス3世の命日なので、少しその死にまつわるお話をしようと思います。

インノケンティウス3世は1216年7月16日にペルージャで亡くなりました。彼はペルージャの大聖堂に埋葬されていましたが1891年、彼を模範とするレオ13世によってサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に移されました。
彼の死因は正直言って良く分かりません^^;;
ジュリアン・グリーンの『アッシジの聖フランチェスコ』(以下『聖フランチェスコ』)には脳血栓で亡くなったという記述がありますが、小長谷正明著『ローマ教皇検死録』にはマラリア、もしくは熱病のページであげられていました(断定はされていないので微妙な線?)

彼が死んだ時の様子を、アッカの司教に叙階されたばかりのジャック・ド・ヴィトリが記しています(私はこの人の書いた文献を探しているのですが、悲しい事に未だに見つかりません;▽;)
とにかく暑い日の事だったようで、その所為で事もあろうに教皇様の棺を守る人は誰もいませんでした。
翌日、聖職者たちがその棺に近づくと、暑さの余りに腐乱して悪臭を放つインノケンティウスの遺体があり、きらびやかな冠や笏、装束は盗賊によって全て剥ぎ取られてしまっていたそうです。
キアーラ・フルゴーニの『アッシジのフランチェスコ』にはフランチェスコがその場に居合わせてインノケンティウスの無残な遺体を見たとあるのですが(『聖フランチェスコ』から判断するに、13世紀イギリスのフランチェスコ会士、エクレストンのトマスさんが主張しているとの事)、信憑性の程はわかりません。
それはありそうにない事だとする、ジュリアン・グリーンいわく『(フランチェスコがペルージャにいたなら)恩人である人の遺体を、必ず夜通し見守ったに違いない』と。
正直個人的には私もフランチェスコさんにケン様の遺体を見守っていて欲しかったです。見守っていて欲しかったです!


今日の記事はここまで!
明日か明後日には『ローマ教皇検死録』にあった気になる話について書ければと思います。

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聖フランチェスコとケン様


先に言っておくがこのブログは気まぐれ更新です!
早速記事が途絶えた所がもう語る話のストックが余りない証拠だよ!

今日は取り留めもなくアッシジの聖フランチェスコとインケンの話をします。
正直フランチェスコ関連の本に出てきたケン様は基本的に良い人そうで、ギャップがある感じで面白いです。

ジュリアン・グリーンの『アッシジのフランチェスコ』で、「修道会設立認めてちょ」とフランチェスコがインケンに会いにやってきた時のやり取りが個人的に面白かったので載せておきますw


清貧をモットーとするフランチェスコはインケンに謁見した時酷く薄汚れた粗末な格好をしていました。
その姿を見兼ねたインケンは彼に対して言います。
「豚の番に行きなさい。豚と一緒に堆肥の中にでも転がって、会則は豚にあげてしまいなさい」
(インケンの発言が酷過ぎて、この時点で私は笑ってしまった。)
しかしフランチェスコの凄いところはこれを実行してしまうところです。
体良く追い払われた事を知ってか知らずか、フランチェスコは実際に豚の小屋へ行き、今度は泥や堆肥にまみれた姿でインケンに謁見しにきたのです。
周囲の聖職者の冷めた態度とは対照的に、インケンはその素朴な言葉に心を動かされていました。

この後、夢の中におけるインケンとフランチェスコの会話が繰り広げられるのですが、「お金なしで、どう生きていくつもりなの?」と現実的な疑問を呈するインケンに対して「イエス様にお任せしてます^^」と爽やかに答える二人の微妙に噛み合ってないような会話が素敵でした。
結局「永遠の王(=キリスト)の息子は飢えない!」というフランチェスコの言葉に納得し(納得するんかい)、ケン様は口頭ながら布教の認可を与えたのでした。


まあ他の本には「清貧を尊ぶ辺りが初期ワルド派(異端認定済)に似ていてどう転ぶか分からないから、実験的に口頭で認可を与えるのみに留めた」みたいな事が書かれてますけどね。
人々に崇敬されていたフランチェスコは、権威が低下していた当時の教会的には利用価値の高い人だったようなので、押さえておきたかったのかも知れません。


素朴な言葉に心を動かされたインケンも面白いのですが、個人的に、常識人のケン様が色々突き抜けてるフランチェスコに振りまわされているイメージを受信しました、まる!

あとケン様が死んだ時にフランチェスコがいたって説があるんですが(ガタッ
『アッシジの~』では否定されていました。
何故なら、「フランチェスコがその場にもしいたなら、恩人である教皇の棺に寄り添っていたはずで、賊の狼藉を許す訳がない」という趣旨の文に、「フランチェスコどうしていてくれなかったのぉぉぉぉぉ!!」と私は叫びました!

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