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ハインリヒ温和公


アルブレヒト賢公の双子の兄弟・ハインリヒ温和公についての記事!
Allgemeine Deutsche Biographieというドイツ伝記事典の記事を訳してみました。
冒頭部分が未完成なのですが、そっちは経歴なので、先にミュールドルフの戦い関連の部分だけ挙げておきます。

8/17:一部追加・完成しました。




オーストリアとシュタイアーマルク公爵・ハインリヒはアルブレヒト1世とエリーザベト(ケルンテン公マインハルト2世の娘)の五男として、アルブレヒト賢公と共に1298年11月もしくは12月の終わりに誕生し、1327年2月3日に亡くなった。
兄であるフリードリヒ美王とレオポルド1世と比べて、ハプスブルク家の政治に対して大きな影響力を持つ事が出来なかった。

兄を選挙で勝たせる為に、1314年の秋、ハインリヒはケルン大司教ハインリヒ2世の投票を得ようと、彼の姪にして、フィアーネブルク伯(Virneburg:ラインラント=プファルツ州)ループレヒ2世の娘であるエリザベスと結婚していた。
(訳者註:ハインリヒ2世とループレヒト2は兄弟)

1316年の春に1000の歩兵が(兜:文脈から判断するに歩兵の事であると思われる)兄から援軍として送られた。教皇派と繋がっているマッテオ・ヴィスコンティと戦う為である。
しかし説得されて彼らは撤退した。(誰に説得されたかは指示語が分からない^^; 文法からするとマッテオか美王なんですが、続く文から考えて美王に説得されたのかもですね)
皇帝派による殲滅はフリードリヒの利益にはならなかったからである。

この年の秋、ハインリヒはバイエルンへの出征に参加した。
9月28日、ミュードルフにおいてボヘミア王ジャン(ヨハン・フォン・ルクセンブルク:神聖ローマ皇帝カール4世の父)によって捕縛され、処遇は彼の手に委ねられた。(ジャンが捕えたかは少し自信がないですが、思い当たる人が文に他にいない^^;)
ハインリヒはビュルクリッツ城(Schlosse Bürglitz)に拘留され、そこにおよそ一年もの間、鎖で繋がれた。
1323年のの9月の終わりに、漸く自由を取り戻した。
しかし、過酷な捕虜の生活はハインリヒの命を削り取り、彼は1327年の2月3日にブルック・アン・デア・ムーアで亡くなった。ラインからこちらへ向かう彼の兄・フリードリヒ美王と落ち合う為にグラーツへと向かう途上であった。
ハインリヒは妻によってケーニヒスフェルデンの修道院に埋葬された。彼女もまた、後を追って1343年の9月14日に亡くなった。


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